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朗と共に生きる こんなんありえへんよなあ、おかん




会員の大西まゆみさんが、三重県四日市市内で講演をされました。

人前で講演をするのは初めてとの事でした。

大変緊張され、準備もお辛かっただろうと思います。


大西まゆみさん御本人のご了解のもと、講演録の一部を以下にご紹介します。




2018年12月29日、津市国道23号線で大事故がありました。加害者は高級乗用車で車線変更を繰り返し、他の走行車を追い越し、加速し続けた挙げ句、時速146キロでタクシーの側面に衝突させました。タクシーの乗客は、会社の忘年会の2次会に向かう途中でした。タクシーの運転手を含む3名は、心臓破裂などによる即死でした。息子・朗は、病院の救命センターで必死に生きようと頑張りましたが、6日目の1月3日、多臓器不全で亡くなりました。


その年は、年末まで仕事が入っており、会社の忘年会はない予定でした。当日たまたま仕事が早く終わり、急遽忘年会をすることになりました。12月29日、朗は仕事を終えていつもより早く帰ってきました。「今日は会社の忘年会なんや」「なんで、さとなんやろ。行きたないなあ」と言いました。朗は、よくお酒を飲むので、「ちょっと食べていくわ」と言って、私が造ったおかずを台所で食べていました。「職場の先輩のお母さんが迎えにきてくれる」「なんでさとなんやろ。いきたないなあ」若い子なら和食より焼肉のほうがいいという意味だと思いますが、不思議なことを2回も言いながら、この日は、出かけていきました。朗と言葉を交わしたのは、それが最後になってしまいました。


その夜、私はなかなか寝付けませんでした。夜中1時半頃チャイムが鳴り、玄関のドアをドンドンドンと叩く音に、朗が家の鍵を持っていかなかったのだと思いました。「そんなに叩かんでも」と玄関を開けると、警察官が2人立っていました。「朗さんが・・・」と聞いたとき「朗が何か悪いことでもしたのか」と咄嗟に思いましたが、次の言葉は「事故に巻き込まれて、救急搬送されました」でした。


三重大学病院と聞いて「生きていますか?」と聞くと、「三重大に行ってから聞いて下さい」との返事でした。こんなことは、ドラマでは見ますが、現実に自分の身に降りかかってくるのかと、信じられない思いでした。とにかく生きていてくれることを必死に祈りながら、三重大に駆けつけました。救命の看護師さんから、「朗さんか確認してください」と言われたので、私は、処置を受け、意識なく人工呼吸器を装着し、ベッドに寝かされている大きな男性を見ると「ああ、朗や」とすぐにわかりました。何かの間違いであったらとの思いは消えました。右足が挟まれていて、レスキュー隊に車を切断してもらい、最後の搬送になったそうです。突然あり得ない事故に巻き込まれ、全身の細胞が壊されるほどの衝撃と、右足を挟まれて即死であっても不思議ではない状態で、みぞれ混じりの雨に濡れて、何か思うことができたでしょうか?搬送されてきたときは、まだ意識があったようで、看護師さんが「見える?」と聞くと「見えやん」と答え、そのあと意識がなくなったようです。着ていた衣服は血まみれで重く、救命処置のため切って脱がせてもらっていました。携帯電話は事故の衝撃を受け、反り返っていました。カバンは裂けて破れ、肩掛け紐もちぎれていました。


私たち家族は待合室で待機し、無我夢中で祈りました。命があったことが不思議な状態であったそうです。朗は若い、体力もある、必ず生きてくれると信じ、必死で祈りました。

事故当日12月29日に、ほとんどちぎれてぶら下がった状態の右足を切断する必要があり、命が助かるのならと、膝下から切断となりました。その晩は一晩かけて、全身の出血のひどい血管をひとつひとつ止血してもらい、朝方一度、救命の部屋に戻ってきました。出血が止まらず、何時間かおいて再度出血の処置をしてもらいました。


切断した右足を火葬しなくてはいけません。12月30日、箱に入れられた白い布で包まれた右足はかなり重く、朗の足と思うと辛く、私は持つことができず、娘が持ってくれました。大丈夫と思っていた左足もぱんぱんに腫れて、紫色をしていました。筋膜を切開する処置の必要を説明され、承諾しました。想像を絶する手術を終えた左足は、白い包帯で巻かれていましたが、出ている足首から先はやはり紫色に腫れていました。


家で待機と言われ、私たち家族が家に戻ったのは12月31日、大晦日の夜でした。お正月らしい気分もなく、もちろん何も手につかず、どうか助けてくださいと祈るしかありませんでした。

1月1日午前中に、やはり左足も思わしくなく切断の必要があると連絡が入りました。命には代えられず、左足も膝上で切断となりました。さすがに彼女も泣きました。「働き頭にならなくていい、私が働くから」と言ってくれました。両足を失った婚約者の朗から去って行っても仕方ないのに、本当に感謝でした。会社も両足を失った朗ができる仕事をと、デスクワークを考えてくれました。

1月2日、面会時に見た朗の目が半開きになり、いつもと違っていました。瞳孔が開きかかっていたのです。「ああ、もうあかんのかな」と思いました。今日まで必ずよくなる、絶対生きてくれると信じて祈ってきましたが、このとき初めて死というものが頭をよぎりました。CT検査の結果、脳に出血の陰りが出てきたのです。出血は止まらず、輸血は亡くなるまで続きました。面会ごとに、シーツから出ている肩から上にふわーっと不気味に紫色の内出血が増えていきました。全身の細胞という細胞が全部壊されていたのです。


1月3日、なかなか回復しない肺と心臓を休ませるため、人工心肺まで装着してもらいました。

何かあったら連絡をすると、家で待つように言われました。人工心肺は稼働し始めましたが、朗の命は終わろうとしていたのです。病院から連絡が入りました。「ああ、朗は終わりなんかな」と思いましたが、家族に「行くよ!」というと、なぜか主人は歯を磨き始めたのです。「歯磨きなんかいいから」と私が言うと、「歯くらい磨かんと申し訳ないやろ」というのです。その状況を受け入れられなかったのです。

三重大病院に駆けつけました。医師の汗だくで必死の人工呼吸で心拍を保っている状態でした。着くやいなや、私が「ありがとうございます。もう大丈夫です」と言い、頭を下げたところで朗の命は終わりました。全身の細胞が壊され、左腕も肋骨も骨折したまま、手をつけられる状態ではありませんでした。

朗はもう頑張らなくていい、眠っているような穏やかな顔でした。本当によく頑張った、お疲れさん、ありがとう。


警察の検視では、朗の遺体の写真が撮られていました。後日、主人と私に警察の聞き取り聴取がありました。まだ、日も経っておらずふらふらの状態でした。最後に私が「朗がどんな状態で亡くなっていったか、検視写真を見せてください」とお願いしましたが、警察からは「見ない方がいい」と言われ、見せてもらえませんでした。今でも、やはり息子が加害者にどんな状態にされ、亡くなっていったのか、母親として見届けてやらなあかんだのでは、との思いが残っています。


朗の遺体が病院から葬儀場に向かう車に、私が一緒に乗りました。朗、よく頑張った、えらかったな、ご苦労さんやなあと抱きしめてやりたかった。運転手さんが「息子さん大きかったんですねえ」と言われ、「182cmあったんです。バスケットボールをしていました」と何か静かな誇らしい気持ちで答えていました。


その晩から、葬儀場に婚約者と私がパイプ椅子を並べて、朗と一緒に泊まりました。夜、気がつくと、朗が寝かされている台から、骨折したままの左腕がだらりと垂れ下がっていました。「痛かったやろ」と持ち上げた腕は冷たく濡れていました。白いシーツは薄い赤色に染まっていました。細胞にたまっていた水分と共に、死んだ後まで血を流していたのです。朗、痛かったな、辛かったな、もっと生きたかったなと震えました。泣きました。


1月5日通夜式、1月6日告別式でした。朝からたくさんのお花をいただき、20基を超え、会場の仕切りが取り払われました。通夜、告別式には、のべ1,000人あまりの方がお別れして下さいました。幼稚園、小学校、中学校、高校、中退した専門学校の同級生や学年の違う人たちまで、仕事関係でお世話になった皆さん、お世話になった先生、塾の先生、ご近所のおじちゃん、おばちゃん、元の彼女まで来てくださいました。


朗の友だちに「涙厳禁、笑顔で送ってやって」とお願いしてあったので、友だちのお母さん達は会場の外でひと泣きした様子で、眼を腫らして会場に入ってくれました。焼香し、みんな必死で涙をこらえ、一礼してくださる列が、延々と続きました。出棺の曲は、声が低い朗が生前よくカラオケで歌っていた「宇宙戦艦ヤマト」でした。友人と弟と七人で棺を担いでもらいました。朗は勇壮に宇宙に旅立ちました。火葬に向かうリンカーンには付添いが一人、婚約者に乗ってもらいました。声にはならないですが、いっぱい最後の話をしたことでしょう。


朗がこの事故で亡くなったことを後で知った高校の手話の先生は、お手紙と朗の映ったDVDを送って下さいました。卒業後13年余り経っていても覚えていて下さり、温かいお心に感謝しかありません。


体力が取り柄の自分に合った仕事に就き、多くの友人に恵まれ、最愛の彼女と結婚の夢も現実になろうとしていた朗の人生は、31年と短かったけれど、幸せな人生であったと思います。遺影のほかのどの写真を見ても、全部楽しそうに笑っています。名前のとおり、朗かで優しい子でした。生きていれば、これからの長い人生、描いていた夢も希望もいっぱいあったと思います。


 その夢や希望は、この事故で無残にも打ち砕かれました。右足に続き左足も失い、全身の細胞が壊されていました。どんなに苦しく痛かったでしょうか。亡くなってしまうなら、本人は即死のほうが楽だったのではないかとも思いましたが、朗は私たちに祈りとお別れの時間をくれました。6日間生きようと頑張ってくれた朗の優しさに感謝しかありません。


 葬儀が終わり、ご飯の支度もできず、当分の間みなさんがご飯を運んで来て下さいました。小さな骨壺に収まってしまった朗を膝に抱き、「小さな頃、こうやって抱っこしたなあ」と話しかけながら涙がこぼれました。朗のいない現実が悲しく辛く、涙のない日はありませんでした。


キラキラ輝く星を見て、朗は星になったんかなあと思いながら、「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞のように、いやいや必ずここに帰ってくると、見送ってくれた皆さんに約束したのだからと、星にはなってないんかなあと思ったりしました。でも、月を見ても朗が見守ってくれている。虹が出ると、朗が励ましてくれている。だから前を向かなあかんのやと思わせてくれました。


刑事裁判が始まったのは、朗が亡くなって1年半後でした。警察から検察に危険運転致死傷罪で送られました。裁判員裁判で、民間人の中から選出された7~8人の方が裁判官と共に参加しました。被害を受けた遺族は全員喪服で、裁判に臨みました。私は朗の遺影を持って行きました。しかし、加害者に威圧感を与えるからという理由で、遺影の持ち込みは許可されませんでした。加害者に「あなたは未来あるこのような人を殺したのですよ」と、一人のことでも見て欲しかったからです。


朗の裁判は、平成30年12月29日午後9時53分頃、加害者がベンツを運転し、津市内の上り線と下り線が中央分離帯で区切られた片側3車線の国道23号線の第3車線を進行中に、左側から中央分離帯の開口部に向かって横断した朗の乗ったタクシーの右側前面に衝突させた交通事件でした。国道23号線は法定最高速度が60キロなのですが、加害者は146キロのスピードで衝突させたのです。


その結果、タクシーの運転手と、乗客であった朗を含めた3人を死亡させて、1名に加療期間がわからないほどの大きな傷害を負わせました。人を4人死なせ、1人に大きな傷害を与え、今も苦しみながら生きていらっしゃいます。その人たちには、私たちのような家族がいて、悲しみのどん底に突き落とされました。その上、裁判でも傷つけられたのです。


みなさんは、国道23号線を146キロで走ったことがありますか?どこから車が飛び出してくるかわからない、どこから人が横断してくるかわらかない国道で、146キロのスピードで走ることができますか?そんな危険なスピードで事故を起こしたのだから、私は当然危険運転致死傷罪で裁かれるものだと思っていましたし、みなさんも同じように思って下さると思います。それが一般的な感覚だと思うのです。でも裁判は違いました。


判決は、過失運転致死傷罪の懲役7年でした。人を4人殺しておいて、たったの懲役7年です。過失というのは「うっかり」という言葉ですが、146キロのスピードで「うっかり」運転していて4人殺しましたという判決だったのです。私は信じられませんでしたし、今でも悔しくてたまりません。


加害者は被害者4人の人生の背景は何も知りません。裁判のとき、「謝罪文を送りました」と言いたいだけの全員同じ文のコピーを送り付けてきました。それも誤字脱字だらけ。間違った字の上に重ねて字を書き、文中に「私にも遺された遺族があります」と書いてありました。自分が無残は形で奪ったいのちは、一人ひとり違う人生の背景を持つことを理解しようともせず。自分の家族を思いやっているとは。そんな人間だから、あのような身勝手な暴走ができたのでしょう。


 私が被害者陳述をしたとき、裁判員裁判でほとんど全員の人が泣いていました。マスコミの記者さんからもすすり泣く声が聞こえてきました。私は皆が、私と同じ思いで、共感してくれると思いました。しかし、判決はまさかの過失運転致死傷罪、懲役7年でした。なぜ、146キロの暴走で、5人中4人死亡、1人治療期間が不詳という被害を出し、なぜか過失運転になるのか意味がわかりませんでした。


津地裁で第一審のときには、私は危険運転致死傷罪のことを、よく理解していませんでした。丁寧に丁寧にこれでもかというくらい検事さんは検証してくれました。後から判ったことでしたが、直線道路での危険運転は認められにくいという事実があったのです。まっすぐな道をぶれずに衝突するまで走れたら、運転を制御できたということで、危険運転には当たらないというのです。たとえば、路地を時速160キロ越えで走って何人死傷させようと、ぶつかるまで真っ直ぐ走れたら、危険運転にはならないという法律なんです。


もう一つあきれたことに、「道路脇から人や車が出てくるということを考えて走っている人はまずいない」という法律をつくるときのやりとりがあります。皆さん、とんでもないと思いませんか。車を運転する人は、みなそこまで気を付けながら運転していますよね。私たち一般市民の常識と大きくずれています。ぶつかる前に止まれてはじめて運転を制御できたのではないでしょうか?裁判員が入ったところで一般市民感覚はもみ消させたのです。パフォーマンスにすぎないこんな制度に意味がないと思いました。


判決は「危険運転に間違いはないが、危険運転には当たらない」ということでした。常識とかけ離れていても、法律どおりと言うのならば、AIのほうが人間より的確な判決を出すと思います。人間が判決を下すなら、人間の血の通った判決がほしいと思います。


 地裁の判決に控訴しました。しかし、名古屋高裁の判決はもう一歩内容が後退した過失運転致死傷罪懲役7年でした。最高裁に必ず上告してくれるものと信じていましたが、「上告の理由が見当たらない」と上告断念でした。負けてもよいから上告をお願いしましたが、無理なんですと深々と頭を下げられました。「ああ、これで裁判は終わったんやなあ」と悲しいとも何とも言えない空虚な思いでした。


 もう少し詳しく、名古屋高裁の判決のことをお話しします。裁判長の判決文の中にはこのようにありました。


 もちろん制限速度60キロの一般道を時速140キロを超える高速度で、しかも頻繁に車線変更を繰り返し、他の走行車両の間を縫うように走り抜けるという公道である本件道路をあたかも自分一人のための道路でるかのような感覚で走行するという身勝手極まりない被告人の運転が、常識的にみて「危険な運転」であるということは言うまでもない。しかし、危険運転致死傷罪は単なる高速度の運転ではなく、進行制御困難な高速度であることを必要とするのだから、被告人の運転が危険な運転であることは明白であっても、危険運転致死傷罪には当たらないと言うのです。


裁判長は146キロで一般道を走るのは「危険な運転」であるとはっきりと言いました。でも、真っ直ぐな道を逸脱することなく、ぶつかるまで真っ直ぐに走れたら制御できるから、危険運転致死傷罪ではないと言いました。みなさん、どう思いますか?「危険な運転」なのに、危険運転致死傷罪には当たらないのです。


それに加害者は過去に速度超過で罰金刑を受けていました。危険なスピードで無謀運転を繰り返す中で、4人もの人を殺す交通事件を起こしています。だから、裁判長は、厳しい非難を免れない。本件の犯情の悪質さは類を見ない。頻繁に車線変更を繰り返し、他の車両の間を縫うように時速146キロという高速度で一般道を走り抜けるという傍若無人な被告人の意識の低さ、感覚の鈍さは相当に問題と言わざるを得ず、その過失は極めて悪質かつ重大であるうえ、4人を死亡させ、1名に瀕死の重傷を負わせたという重大な結果を生じたのも、高速度走行のためであると言っています。


判決は、ここまで加害者の運転が危険極まりないと何回も断言しているにも関わらず、加害者の過失というにはあまりにも無理があるのではないでしょうか。危険極まりないのに、うっかり過失運転でしたという判決なのです。常識とあまりにもかけ離れていても、法律にはこう書いてあると言うのであれば、AIに法律を覚えさせて判決を下せばいいことです。より正確に時間も労力もかけなくていいので、裁判など起こさなくてもよくなります。時短になり、人員削減にもなると思います。人間が判決を下すならば、人間の血の通った裁判がほしいです。そうでなければ、人間が裁く意味がないのではないでしょうか?


それから、私が悔しいのは、朗の裁判が判例集に掲載され、朗の交通事件から起きた高速度走行の交通事件の基準にされてしまっていることです。どうしてこんなおかしな危険運転致死傷罪の法律で裁かれた判決が、これからの基準になるのでしょうか。法律は私たちを守るためにあるものなのに、私たちはこの法律で傷つけられ、守られていません。それが悔しくてたまらないのです。私はこの法律を変えたいと心から思いました。


判決のあと、いのちの言葉プロジェクトの鷲見さんと会わせていただき、お通夜でもお葬式では人前でも泣けなかった私の話をずっと聞いて下さり、2月の寒いときに温かいおうどんをいただいたあの味は今でも忘れられません。人形劇やいのちの灯り展に参加させていただき、今ようやくこのようにまでなれました。それまで絶対危険運転致死傷罪だと頑張っていきたい思いが、むなしく何で過失なんやと悲しく、それから眠れない食べられない日々が続きました。


 こんな判決間違ってる!と危険運転致死傷罪を変えたいと署名活動をして法律変えないと!」と思ってもコロナ禍で街に立って呼びかけることもできない!それでも署名をお願いして朝方まで考えて、それでも7時には起きてしまう。食べられないそんな日が続き、支援センターの担当の方に心身クリニックをすすめてもらいました。それでも私は大丈夫!」と思っていました。でも、やはり・・・大丈夫な状態ではなかったのです。もうすぐ事件から5年ですがやはり・・・季節がかぶってくると気持ちが沈んでいます。おめでたいお正月なのに、おめでとうがいまだに言えません。


過失運転致死傷罪上限懲役7年、危険運転致死傷罪上限懲役20年です。もし捕まっても7年の刑期なら、走ってみたいと思う人もいるようです。でも、20年の刑なら少しは考えるのではないかと思うのです。このような輩には、自分が長い懲役・・・という不利益を被るということしか抑止力にならないのではないでしょうか?


 私は息子・朗の事件を、悲しいだけの出来事で終わらせることはできません。危険運転致死傷罪を誰もが納得できる法律に改正されるまで戦っていきます。それが、息子・朗の死の意味を示すことになると思っています。朗の人生はこんな無残な形で、突然終わらされ、最後まで離れず、励まし続け、親のできない部分をうめてくれた。素晴らしい彼女を遺して、宇宙へと旅立ちました。そして法律に二度殺された思いです。ありえないこんな事件で、こんな法律で泣く人を今後なくしたい!朗の「こんなん、ありえへんよな、オカン!」と声なき声に、今日からも戦いは続いていきます。





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