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法務省 検討会 第1回の発言

波多野暁生です。

2024年2月21日に開かれた、「自動車運転による死傷事犯に係る罰則に関する検討会 第1回」の議事録が法務省のHPに掲載されました。



私の発言は下記の様な内容で、今回の検討会について、方向性のお願いをさせていただきました。



『私は、被害者遺族、そして被害者として発言をさせていただきます。

どういった事件の被害者であるかということを、ちょっと簡単に触れさせていただきたい と思います。

2020年3月、今から4年前になります。私は、当時11歳の一人娘と青信号の横断歩 道を一緒に渡っていました。そこに、赤信号無視の直進車が時速57キロメートルで我々 の左から突っ込んできました。

娘は死亡し、私は重傷を負いました。

刑事裁判の記録によると、我々が横断を開始したのは、歩行者信号が青になってから9秒後と推定されていま す。横断歩道の長さは約16メートルで、衝突地点は約13.2メートルの地点でした。 あと少しで渡り切るところでした。

これは、信号の変わり目の事件ではありません。私は、ひかれたときの記憶は全くありま せん。

娘は、多分今も自分が死んだことに気付いていないと思います。

私は、手術を受けて、ICUにいました。その間に、妻には警察の方が付き添ってくだ さいました。妻は、警察から、極めて悪質な赤信号無視だが、危険運転致死傷罪の適用は 難しいと説明を受けていました。

私の回復を待って、私の入院先にも、警察が、調書作成のために来ました。捜査中なので、明言はできませんがと言葉を濁していましたが、危険運転致死傷罪にはできないだろうという口ぶりでした。

結局、警察は、過失運転致死傷罪で送検をしました。過失運転致死傷罪での送検が検察の 総意であると言われたと、警察の方から聞きました。

その時、私は、若い警官に遺族調書を取られたのですが、彼は号泣をしていました。

こんな事故がこんな軽い処罰でいいはずがないと。このことについて現状を変えられるのはお父さんとお母さんしかいないと、泣きながら言われました。

そうした中、私は過失犯、すなわち、「うっかり犯」という評価に到底納得できるはずも なく、入院先で、法務省のホームページから、赤信号殊更無視の危険運転致死傷の事例を 調べ続けました。

退院後も、裁判例や学者の論文を読み込み続けて、知見のある支援弁護士にお願いをして、文書を3本書いていただいて、東京地検交通部に差入れをしてもらいました。

相当なエネルギーを掛けて、弁護士報酬を払って、東京地検交通部と、いわゆるハードネゴシエーションをしました。

その結果、追加捜査が行われ、被疑者は、実況見分で、赤信号を無視する明確な動機も供述をしておりましたので、1年後に、危険運転致死傷罪で起訴がされました。

2022年3月、事件から2年経った時に、刑事裁判で危険運転致死傷罪が認定されまし た。

判決は、懲役6年6か月でした。

私が申し上げたいのは、率直に言って、なぜ被害者がここまでしなくてはいけないのかと いうことです。

こういった疑問を実務家にぶつける機会が何度かありました。警察、検察官、弁護士、多くの実務家が事あるごとに言っていたのは、条文の表現が曖昧なので、公判維持が難しいということでした。


今日、資料を用意させていただいたので、お手元を御覧いただきたいと思うのですが、1 枚目にいろいろな文言を載せています。

事件後、私も危険運転致死傷罪について様々な文献を読んだりして、私なりに勉強をしたのですが、こういった言葉が出てきます。

危険運転致死傷罪というものがどうして必要なのかについては、2001年の危険運転致 死傷罪の立法時に、相当程度議論が行われています。その後、何度かの改正においても、なぜ必要かということは議論が尽くされていると理解をしております。

資料の1枚目に赤字で記載していますが、法律の条文というのは、紙の上に書かれている だけでなく、実際にこれを適用できなければ仕様がありませんということが、2020年の法改正の時の法制審の議事録に載っております。


正に私はこのとおりだと思っているところです。


今回、期待する検討の在り方ということですが、あるべき論というものは、もう十分に議 論がある程度尽くされていると思います。

一方、現状としては、私が自身の体験を申し上 げたように、なぜここまで適用が難しいのか。現場の人も、条文が曖昧だから公判維持が難しいと言ってしまっているような現状がなぜ起きているのかを差異分析していただきたいというのが、私のお願いでございます。


資料の2枚目は、昨年12月20日に、自民党のプロジェクトチームの提言を岸田総理に提出する時に同席をさせていただいた際に、総理に手渡した資料の一部です。

繰り返しに なりますが、危険運転致死傷罪の創設から20年超を経て、その現状の問題点について検証するべきであると考えます。

条文の表現が曖昧であることから、どういうことが起きるかというと、立証が困難であり、捜査上、現場の最前線の警察・検察が困っていると私は確かに聞いています。

そして、その結果、危険運転致死傷罪の適用漏れが起き、捜査の知見も溜まらず、士気が落ちるといった悪循環が起きていると私は思っております。

仕事は何でもそうだと思いますが、優秀な上司が諦めた事件について、若手が、それにつ いて、俺ならできると思うかといえば、恐らくそうではなくて、あんなに優秀な上司でも できなかったのだから、自分も無理だなと、そういうバイアスが掛かると思います。

ですから、現状の点検とすり合わせ、磨き、必要な範囲での条文改正をお願いしたいと考えています。


資料の2枚目に「氷山の一角にすらスポットが当たらない」と書きましたが、その「②」 にあるように、否認した者は許されて、自白した者だけが処罰されるということが実際に 起きていると思います。

私の事件でいえば、被疑者は、「赤信号を見て、赤信号を見たけ れどもアクセルを踏み続けました。」と正直に言いました。なので、危険運転致死傷罪で 起訴されたという側面もあると思います。しかし、実際に、過去の否認された事例を見ると、赤信号は見落とした、漫然と前を見ていただけというように、後付けでストーリーを作って、結果として、「赤色信号を殊更に無視し」との要件には該当しないということで、 過失運転致死傷罪になるということが起きていて、「赤信号を無視した。」、「飲酒によ って正常な運転ができなかった。」などと正直に言った者が処罰されて、「実は、酒は飲 みましたけれども、脇見だったんです。」、「赤信号は見落としただけです。」ととぼける人が処罰から逃れることができるという現状が実際にあることを、もう一度御認識いただきたいと思います。

あと、あるマスコミの人から、2001年の立法時に立法の担当の中にいた方の発言とし て、私が聞いた話ですが、否認した者は許されて、自白した者だけ処罰されるというのは、 刑法というのは何だってそういうふうにできているということをおっしゃったと聞きまし た。それは、どういうつもりでおっしゃったのかは分かりませんが、それを言ってはおしまいだろうというのが私の意見でございます。


実際、今、問題になっている高速度運転の事件では、訴因変更が行われるなどしています が、資料の2枚目に赤字で書いているように、例えば、署名活動をする、あるいは、交通鑑定人に頼んで追加の証拠を独自で集める、報道による支援を受けるといったカードがきれいにそろってできる人は、ほとんどいないということを申し上げておきたいと思います。

ですから、たまたまマスコミに取り上げられて、悪質な事案として目立つ事件もあります が、一方で、流れ作業的に過失運転致死傷罪で処理をされて、到底納得がいかないまま、 人知れず泣いている方もいらっしゃると思っております。


資料の2枚目の「3」の「②」のところですが、正に、抜本的、そして、現場の実務部隊 目線での点検が不可欠です。つまり、現場で体を張っているのは警察であり、検察であり、 そういう方々が、どう考えても悪質な、立法時に悪質な運転として想定されていたであろ う事件について、この条文が使えないという悔し涙を流しているということが実際にある と思いますので、なぜそういうことが起きているのかを点検していただきたいと思ってお ります。


最後に、資料の3枚目ですが、これは、2012年の自動車運転死傷処罰法の制定時の法 制審の資料を、法務省のホームページから入手したものです。ここには、当時、いろいろ な被害者団体からヒアリングをした結果について、「考え得る対応・方策」というものが 書かれてありますが、「2」に、「危険運転致死傷罪の構成要件の明確化」と書いてあっ て、4枚目にも、例えば、ひき逃げの話や、過失運転致死傷罪の法定刑の見直し、つまり、 危険運転致死傷罪の法定刑は懲役20年や15年ですが、過失運転致死傷罪の法定刑は一 気に懲役又は禁錮7年に落ちるということについての問題点などが出されています。

つまり、被害者・被害者団体がどうか変えてくださいと言っていることは、10年前からほとんど何ら変わっていないということです。


私は、自民党の交通安全対策特別委員会で、プロジェクトチームが立ち上がった時に、そ の場におりましたが、そこで、ある議員の先生が、「この問題は昔からあるのだ。これを やらないわけにはいかない。なぜなら不作為を問われるからだ。」と言っておられました。


今回、こういった検討会が開かれるに当たっては、今、申し上げたようなことについて検 証を是非していただき、「不作為」ということにはならないようにしていただきたいとお 願いをいたします。』







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